昭和50年05月08日 朝の御理解
御理解 第100節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
金光様の御信心を頂いとれば、めでためでたと言う様なおかげ、家繁盛子孫繁盛と言った様なおかげが頂けれると云う意味ではありません。そういう道を教えるのじゃと仰るのですから、そう云う道を体得しょうと、一生懸命努めなければ、その道は開けてない開けて来ません。金光大神の言わば教えて下さる事がそのまま、めでためでたに繋がる事であり、矢張り家繁盛子孫繁盛、所謂親の代より子の代と云う様に、繁盛のおかげを頂いて行く、そう云う道を教えて下さるのですから。
その道を神様は頂き行じて行かねばいけません。ですから教えの全てがそうだと云う事になりますけれども、どの教えを頂きましてもです、肝心要なのは矢張り心が中心であります。昨日私は或る方のお取次をさせて頂いて、素直な良い信心をされます。その方のある願い事をお届けさせて貰よりましたら、子供の時によく作って遊びましたがあの竹とんぼですね、竹とんぼをこの位に切って、この両方を薄く削るわけですよね、それがまだその薄くなくてあの厚いんです。
まちっと削らにゃ揚るまいと言う、あれはこう回しただけでずうっと上に揚るんです。私は竹と云う事は素直という事。その方は素直な性質を持っておられる事だと思うんです。けど両端共ですもちっと削って薄くしなければですね、その上にも揚らない訳です。ですから素直な性格、性質と言うだけではいけんのです。それが矢張り削られなければならんのです。言うならば、身を削り心を削りと申しますね。
金光様の信心難儀な事が起こって来ます。どうぞおかげを頂かして下さい。成程おかげ頂きますけれども、それは私はその一時的なおかげであって、山吹の花の様に只、花が咲くと言うだけであります。信心はその問題その難儀を通して、私はおかげを頂かなければなりませんけれども、おかげ頂いた時には信心の力が付いておったとか、お徳を受けておったとかと言う事になって来なければ信心の値打ちはありません。
只、病気をした病院で医者にかかって、病気が治ったというだけとおんなじです。信心は医者やら薬に掛かって、健康になったというだけではなくて、けれどもお取次を頂いて、お願いをして不思議なおかげを頂いたというのは、五十歩百歩同んなじですね。だからそういう難儀な思いをする時に、愈々自分自身が解り自分を言わば見極める事が解り教えを照らして、自分の心と云う物を眺めた時に、ああ是ではおかげは受けられん筈だと云う物を、解らせて貰うて、その事を通して改まりもする研きもするとね。
子供が言う事を聞かん、親の思いとしてはもうそれこそ、千万無量の思いですけど、子供にかける思いと云うの物は。その肝心要の子供が、反対に親不幸する時などはです、ある時ある人が子供の親不幸の言わば限りをする子供のをお願いされるのにです。親先生本当にあの人がああ云う事をする、又もや是を繰り返すと云う時には、この生身を削られる思いが致しますと、こう云うね、親としてそうあります。だからそういう思いがしたのではいけません。本当にいうならば生身を削らにゃいけません。
我情を削らにゃいかん。我欲を削らにゃいかん。信心は日々の改まりが第一と仰るから、日々改まる事に精進させて貰うと同時にです、その事を通して本気で本心の玉を研いて行こうと云う事がね、根本になって教えであります。でないと教えが生きて来ません。私は思うんですけど、教祖様という方はね、私共の心の生み直しの親だと思います。新たな心を産み直して下さる。だからこそ親様であります。
私共の心の産み直しの親です。ですからそう云う私はおかげを頂いてです、始めて教祖様の御教えの有難さが解って来る。ね。親鸞上人と弁円の様なものです、弁円という山伏は上人様の命を狙った。そしてとうとう、それ仕遂げる事が出来ずにね、謝ってその上人様の御弟子にならして貰うとです。人を殺すと云う様な浅ましい心の持ち主が、その上人様の御弟子にならせて頂いて、道を極めようという。
精進して行く内に或る夜、上人様の御帰りが遅いのでお迎えに出た、丁度上人様のお帰りのその道すがらが、数年前に上人様を殺めようとした場所に丁度き合わせた時に、感慨に耽ったというのです。この道は今も昔も変わらねど、変わり果たる我が心かな、と咏ったと云う事です。ね。変わり果なけれはいけないのです。数年前までは師匠上人様を殺そうとまでした自分がです、今は上人様の御弟子として、上人様をこうしてお迎えに出ている自分がです、丁度この山であったこの道であった。
ようもこの様に変われたと云う訳名んです。弁円は所謂親鸞上人は弁円の為の心の産み直しの親であった訳です。教祖様のおかげで私の心の産み直して頂いたね。そう云う所私はお道の信心は人間がね、神の氏子としての自覚を作らせると云う事が、金光様の信心の教えの根本だと思うです。人間はね神様の氏子であるという自覚、そしてその親神様と私共の関係は、所謂関わり合いと言う物を解らして貰うと云う事。
天地の御恩徳を解らせて貰う事も、天地の道理を解らせて貰う事も、天地の私共の関わり合いを愈々蜜にする。愈々交流の道を教えで頂くのです。天地の御恩徳に感動する。そこにはもう天地と交流するものがある。天地の道理を解らして貰う。その道理に合うた生き方をさして貰う所に、そこにもう親神様との交流がある。その交流の道を辿っておかげがいやが上にも、その道を辿って来るおかげを私は、愈々子孫繁盛家繁盛の元になるおかげである思います。
只お願いをして山吹の花的な、おかげを頂くというのは、そういう子孫の繁盛には繋がらない。家繁盛には繋がらない。どんなに工面ようして一代で財をなしたと言うてもです、そう云う物はむしろね、バイ菌の付いた食べ物を子供に残す様なもんですから、子供がそれを言わば食べて腹痛を起こしたり、下痢を起こしたりする様な事ではないでしょうか我情我欲と云う物の伴うておる財では、財だけではありませんけれども、繁盛の全てがです。山も家も田圃もね神様の云うならばおかげで生まれ出たもの。
私共と天地金乃神様との交流があり、その交流するそのル-トを辿って現れて来る所のおかげでなからなければ、それはむしろ危険、危ない。子孫繁盛家繁盛にはならない。そんなら金光様の信心しとれば、皆んな親の代より子の代と言うて、繁盛しとるかというと、繁盛してない所を見るとです、お互いの信心が根本的にです、只おかげおかげと言うておる事になる、心が産みなされていないと云う事である。
教祖様は心の産み直しの親と言え思えれる。それこそ変わり果てたる自分に感動する様な物が無いからである。それをなら皆さんはです日々稽古をしてまあいうならば、竹とんぼを削る様に、素直な心純真な心を持って、日々その事に精進さして頂いて、そして私はこうやってとんぼを上げると云う事は両手をこうやって合わせる事ですから、是は拝むとか祈念とか信心だという意味と思うんです。
そしてそれに力を入れて、上にポ-ンと上げなくてもよいんです。それをこうやって一生懸命祈りさえすればずうっと上に揚るんです。ね。上がらんならまだ重すぎると、心が重い我情我欲でまだ厚すぎる、まあだ身を削る、心を削る事が足りんのだと言う風にです、思うて行かなきゃならん。しかもその身を削り心を削りして行く事がです、有難い楽しい物に成って来なければいけんのです。
私は御理解この百節は、教えの全てが此処の所のおかげを頂かせよう、となさる神様の御心だと思います。ね。何時も心が賑やかで愉快で、それこそ思わずおめでとう御座いますと言えれる様な、心の状態ともいうのもがです、頂ける様な信心を先ず頂きたい。それにはね一つ本気で先ず改まらなきゃいけない。清めなければならない。そして教えを受けなければならない。ね。教祖様は子孫繁盛家繁盛の道を教えると、金光様の信心をしておれば、家繁盛子孫繁盛するという意味ではない。
そこで先ず私共が、確かに教祖様は心産み直しの親様だなと解る程に、自分の心が変わって来なければいけません。去年の自分今年の自分、それこそ変わり果てたる自分と云う物に、感動する位にならなければいけない。それが家繁盛子孫繁盛の土台、基になるものです。そして昨日頂いた竹とんぼのお知らせじゃないけれども、愈々削るそして一心の信心がそこに出来ます。
そこを回しさえすれば上へ飛んで上がる様なおかげが受けられるのです。四神様の御言葉の中に、惜しい欲しい、憎い可愛いをとれば楽じゃと仰います。確かに楽ですね惜しいをとる事、欲しいを無くする憎い可愛いのがいけん 可愛いというのは偏愛の事です。ね。この人は憎いこの人は可愛いそう言うもんじゃない。だから偏愛があっては楽になれません。そういう例えば修行に取り組ませて頂いてです。
段々おかげを頂いて行かねばなりませんがね。そんなら我情を取ろう、我欲を取ろう惜しい欲しいばいっちょ無くしようと思うただけでは取れるもんじゃありません。今日頂きます言うならば身を削り心を削りして行く内にです、自ずと取れて来る物です。どうしてこんなに欲が無くなったもんだろうかと思う位です。だからそれを取れば楽に違いないけど、それを取る事に精進する事ではなくて。結局心を言うならば、研くとか改まると云う事がなされて行く内に、教祖様が教えて下さる教えも。
愈々本当に身に付いて来る、また理解も出来て来るという事になります。教祖が嘘を仰るとは思えません。家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰るのですから、その道を愈々体得させて貰う事に精進させて貰う事が、金光様の道であります。始めて理屈の上では人間は神の氏子と解っても、実感として成程親様じゃなあと解る心も、矢張りそういう本気で研こう、改め様という心からしか生まれて来ないのです。
理屈の上では解ります。大天地に対する小天地であると。ね。もう理屈の上ではもう合点の行かせる、言うならば術はなんぼでもありますけれども、解っただけではいけんのです。実感でなからなければ交流しません。交流しなければ、その所謂おかげのル-トが生まれません。愈々おかげを頂いて、それこそめでためでたの若松様よと云う様なおかげを頂きたいですね。
どうぞ。